- 「自分がなりたくてもなれない、普通とは一体何なのか」
- 「なぜ普通が良いことなのか、自分でも分からない」
本記事では、普通とは何かについて、その言葉に含まれる価値観を分析、解説していきます。
普通とは何か?何者かになれず苦しんでいる人へ!その真実
本記事での結論から言うと、普通とは、
「自分は何者かになれていない」と感じている人にとっての「何者か」の答えだと思い込んでいるもの
です。
この「何者」というのは、言わば「肩書き」のようなものです。
- 部長、課長などの役職
- フォロワー数が〇万人いるインフルエンサー
そして、「普通とは何か」と思い悩まれている方は、ある幻想を抱いているのではないでしょうか。
それは
普通 = 幸せ
という幻想です。
普通という言葉が持っている価値観
世間一般的に「普通になりたい」というと、どのようなイメージをするでしょうか。
- 普通の家庭を築きたい
- 普通に暮らせる額の給料がほしい
- 普通に休日を楽しみたい
これを踏まえると、無意識下で「普通になりたい」と思っている人は、例えば
- 「結婚できれば何者か(夫、妻という自分)になれて、幸せになれるはず」
- 逆に「平均年収も稼げなければ、自分は何者にもなれないのではないか」
と感じていると言えるはずです。
では、この普通とは何かという基準は、どのようにして知ったのでしょうか。
恐らく、テレビやネットの記事ですよね。
ということは、普通になりたいと思いながらも、その普通とは自分の経験や体験、考えから生まれた基準ではないということです。
また、もう一つ、私たちが「普通とは何か」を決めた元になる情報があります。
それは身近な人です。
親や兄弟であったり、友人であったり、会社の同僚であったり。
実はこの身近な人の方が、普通とは何かという基準に大きく影響を与えています。
それは、接する頻度が多いほど、自分と比較する頻度も多くなるからです。
「普通とは〇〇だ」と思い込み、そうなれない自分を自分で見捨てていることに気付く
「なぜ普通になろうとして苦しんでしまうのか」
それは、普通になるという言葉の中には「社会適合している」という意味が含まれているからです。
つまり、「普通」という言葉は、さらに「標準的な」「社会適応している」といった価値観をも含んでいるわけです。
ある言葉が人を縛り付けたり固定したりするとき、言葉の何がその人を縛るのかというと、このように、その言葉にまとわりついている価値観や世界観のようなものが縛っているわけです。
特に日本では昔から
- 「所帯を持ったら一人前」
- 「家を買って一人前」
というように、一定の基準をクリアして初めて社会で認められるような風潮がありますよね。
そのため、
普通になれない = 社会不適合者!?
のように自分にレッテル貼りをしてしまうことが、苦しくなる原因の一つです。
「みんなと同じ「普通」になりさえすれば、自分も何者かになれるはずだ」
という思いが、逆に自分を追い詰めてしまっている可能性があるんです。
普通になれていないと思うから「わかってほしい」と思ってしまう
基本的に「普通になりたい」とは「存在しない他者との比較」です。
他者との比較ということは、あらゆる面で他者に追いつくことは不可能ですよね。
- 平均年収を稼げても、結婚はできていない
- 結婚はできても、子供がなかなかできない
- 子供はいるのに、一緒に過ごす休日がほとんど取れない
つまり、普通になりたいという思いを抱くことにより、
「例え何か1つの事で普通になれても、他の普通になれていない部分に意識が向いてしまう」
という、どんなに頑張っても常に満たされない状態に陥ってしまうわけです。
そうなると、
- 自分は楽をしてきたわけではない。
- こんなに努力したのに普通になれない。
- そんな自分のことを分かってほしい。
という気持ちを他者に求めてしまいがちになり、ますます苦しくなってしまう。
>>>「自分の辛さをわかって欲しい」人が、実は本当に望んでいるもの
そもそも、普通とは何かという基準は、自分を基準にしていないですよね。
自分の能力などとは無関係に「こうあるべき」という目標になっているから、苦しくなるのは当然です。
そして、「あらゆる面で普通になれないと幸せになれない」と思い込んでしまう。
大切なことは、「普通になれなくても、不幸ではない」ということです。
「普通とは何か」とは、幸せとは何かという問い
今一度、自分の心に聞いてみてください。
なぜ自分は「普通」になりたいと思ったのか
- 「世間一般の言う、普通になれたら自分は何者かになれるはずだ」
- 「何者かになれたら、幸せになれるはずだ」
一つの答えとして、
自分とは何者なのかが分からないことに不安を感じており、それを知ることで安心したい
という気持ちがあるのではないでしょうか。
泉谷著「「普通がいい」という病」の中では、普通になることの先に幸せは見つけられないと述べています。
「普通」という言葉には、平凡で皆と同じが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。
つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。
しかし、幸せというものには、「普通」はない。
なぜなら、「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。
本当の安心や幸せとは、普通を目指すことで得られるものではなく、
- 「自分だけにとっての安心、幸せとは何か」
- 「本当の自分とは何者なのか」
を探す過程で見つかっていくもののはずです。