「もう何もかもが嫌で苦しくて辛い。もう楽になりたい」
自分の人生に絶望してしまうまでには、きっと多くの努力と生きづらさに耐えてきた苦悩があったのだと思います。
本記事では、「もう楽になりたい」と辛く苦しい思いに追い詰められていたとき、その気持ちを和らげる考え方や感じ方、方法論についてお伝えしていきます。
「もう楽になりたい」と苦しい人へ。絶望したときに知ってほしいこと
もう楽になりたいと思うほど心に余裕がなくなってしまう根本の原因は、主に2つ考えられます。
- 生きることの目的と手段が、すり替わってしまっていること
- 自分のための人生を生きることを、許されなかった過去があること
実はどんなに辛い毎日の中でも、心の奥底では誰でも、
自分らしく生きる方法
を知っているはずなんです。
たとえばその自分らしく生きる方法の一つは、
「他人の目を気にせずに、小さな自分の欲求を満たすこと」
になります。
ではなぜ、これまで自分に人生を楽しむことを許してあげることができなかったのでしょうか。
その原因が見えてくると、「もう楽になりたい」と絶望し、苦しくなる根本の原因も見えてくるはずです。
1.生きることの目的と手段がすり替わっていると、誰でも絶望してしまう
精神的に追い詰められているときは誰でも、
「何のために生きているのか」
その意味を見失ってしまいがちです。
そもそも人間は誰しも「楽しい気持ちを感じる」と生き生きします。というより、
「楽しい気持ちを感じるために生きている」
と言っても過言ではありません。
そのため多くの人は、
- 仕事をする
- 家事をこなす
- 息抜きをする
- 食事をする
こうした身の回りのことを、楽しく日々を送るための1つの手段として行っているはずです。
つまり、
生きる目的:
楽しい気持ちを感じること
そのための手段:
仕事や家事・身の回りのことをこなす
しかし「もう楽になりたい」と感じるほど追い詰められてしまっている人の場合は、事情が少し異なります。
そうした人は毎日楽しい気持ちを味わうことよりも、やらなければならないことばかりを優先してしまっている傾向があるんです。
それでは生きること自体がつらく苦しいものになってしまいます。
それはいつの間にか、生きることの目的と手段がすり替わってしまっているということです。
生きる目的:
仕事や家事・身の回りのことを立派にこなす
そのための手段:
楽しむことを我慢し、辛さに耐え続ける
こうなると、働くこと・家事をすること・身の回りのことをするといった「義務を果たすこと」自体が、人生の目的となってしまいます。
そうなれば、誰でも「もう楽になりたい」と生きることに絶望してしまうのは当然です。
>>>「義務感で生きる人生・生活」を変えるには、新しい解釈が必要
ではなぜ、そこまでしてやらなければならないことを優先して生きてしまうのでしょうか。
それは自分が楽しむことよりも、
- 他人から立派だと認められたい
- 誰かの役に立つ自分でいたい
こうした気持ちを強く抱いている可能性があるからです。
そして、これは「他人の期待に応えられた自分」にだけ、存在価値を置いていることと大きく関係しています。
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2.自分のための人生を生きることを、許されなかった過去がある
自分の人生を生きられていないと感じる人の中には、そもそも心の底に、
「自分が幸せになることを、他人は望んでいないに違いない」
という自分を苦しめている無意識の強い思い込みが隠れている場合があります。
これはどういうことかと言うと、これまでの人生の中で下記のような思いをずっと一人で抱えてきた可能性があるということです。
- 自分ががんばった受験や就活、結婚などがうまくいったことを、周りの人は心の底では喜んでくれていないと感じていた
- 自分だけが楽しい思いをすると、漠然とした罪悪感を持ってしまっていた
- どんなことでも苦労をしていないと、他人から受け入れてもらえない・居場所を失ってしまう不安があった
こうした思いを心の底でずっと抱いているからこそ、もう楽になりたいと思うほど他人のための人生を生きてしまうわけです。
不幸になることで他人に受け入れてもらおうとしてしまう
こうした自分を苦しめてしまう思いの原因には、主なものとして、
心の安全基地
という自分の心の支えとなるものが少ないことが挙げられます。
この心の安全基地がない場合、誰でも気持ちが不安定になりやすい傾向があります。
その結果、自分の存在価値を目の前の他人に受け入れられたかどうかだけで決めてしまうようになるわけです。
そして、だからこそ何事も人一倍、自分よりも他人のために頑張れるし、その反動でもう楽になりたいと絶望もしやすくなるんです。
特に幼い頃に、
- 親の機嫌がコロコロ変わった
- 子供の自分に対して、優しい時と怒鳴る時の落差が激しかった
このような親の元で育つと、自分のことを
- 人に受け入れてもられる「良い自分」
- 人に受け入れられない「悪い自分」
こうした極端な捉え方しか、できなくなる傾向があります。
>>>毒親育ちは、現実を見るフィルターが生きづらいものにされている
すると、親を含め他人に自分のことをどう思われたかによって、自分という存在を、
- 他人の期待に答えられている、
価値のある自分 - 他人の期待に答えられていない、
価値のない自分
このどちらか一方でしか見られなくなってしまいます。
そのため、他人にどう思われたかによって、自分の存在価値がそのたびに大きく揺れ動くことになります。
結果として、自分が生きる上での行動や考え・価値観の基準が、
「他人に良く思われたい」
という基準になり、自分が楽しむことは後回しになってしまうわけです。
これでは自分が楽しむための人生ではなく、他人の要求を満たすための人生になってしまいます。
自分の人生を生きるためには、「他人の期待に応えられない自分」を少しずつ、ゆっくりと受け入れていく必要があります。
そのための多くの方法の中の一つは、他人への執着を手放すことです。
それは相手を選ばずに誰に対しても、
「自分のことを分かってもらいたい」
という思いを持ち続けてはいけないということです。
たった一人で頑張ってきた人ほど、もう楽になりたいとしか思えなくなる理由
これまでずっと自分が楽しむことを後回しにしてでも、他人のために頑張り続けてきた人というのは、本当に、
「どんなに辛くても自分を律することができ、人のため社会のためを思いやれる立派な人」
だと思います。
しかし、だからこそ「もう楽になりたい」というところまで追い詰められてしまっているならば、いまこそ、その立派な自分でいることを、少しずつやめてみてほしいんです。
それは人は誰でも、自分自身の欲求や感情を満たしてあげなければ、生きる原動力を失ってしまう生き物だからです。
そしてこうした生きる気力を失ってしまう原因の根底にあるのは、自分はどんなに辛く苦しいときでも、
「これまで誰にも頼ることができず、たった一人で頑張って生きてきた」
こうした生き方が限界にきている、ということでもあるはずなんです。
>>>誰か助けてほしい…けど頼れる人がいないという方へ伝えたい
「もう楽になりたい」という辛く苦しい気持ちと、自分自身とは全くの別物
「楽になりたい」と思ってしまうほど辛く苦しいと、その気持ちに自分が飲まれてしまっていることに気付きにくくなります。
しかし、その「辛く苦しい気持ち」は、自分そのものではありません。
その気持ちはあくまで「身体の反応」です。
その苦しい気持ちを感じている自分を、遠くから離れて見てみるイメージをしてみてください。
「その苦しい気持ち」と「観察している自分」は別のものと感じられるはずです。
もう楽になりたいと追い詰められてしまっている状況とは、言い換えれば、
「人生を終えることへの恐怖のストレス」
よりも、
「生きることへのストレス」
の方が上回るときに生じるものです。
つまり、それだけ辛い現実をこれまで歩んできたということです。
いま自分にしてあげられることがあるとすれば、それは自分のことを批判してくる他人の声に耳を傾けることではありません。
生き疲れてしまった自分の心の声だけに、耳を傾けてあげることです。