困ったとき、すぐに他人を頼れる人は、
- 誰かに相談する
- グチを聞いてもらう
こうしたことで苦しい気持ちを解消しているはずです。
しかしどんなに苦しくても他人を頼ることができない人は、どうしても、
どうすればいいのか分からず苦しみながら、一人で抱え込んでしまう
このような辛さや孤独感は、あまりに過酷なものです。
- なぜ自分は「他人は頼りにならない」と感じているのか
- なぜ自分は他人よりも、市販薬やスマホなどの「物」を心の頼りにしているのか
そうした生きづらさに苦しんでいる人の疑問に答えてくれるのが、
著「人を信じられない病 信頼障害としてのアディクション」です。
本記事では、そんな「物」しか頼れない人の生きづらさの正体についてお伝えしていきます。
人を信じられない病とは
他人を信じたり頼ったりすることができない人の多くは、幼い頃に、
「親が心理的にいなかった」
このことが、かなり大きな影響を与えていると本書では述べられています。
親が通称「毒親」と呼ばれるような、
精神的に未熟で、子供の欲求にほとんど応えてあげない人
だった場合、子供にとってそれは「親がいないこと」と同じなんです。
基本的に子供は親や周囲の大人に、自分の嬉しい・悲しい・辛いなどの気持ちを共感して受け止めてもらえます。
そうした経験を重ねることで、自分の感情をうまくコントロールできるようになっていくものです。
しかしそうした役割を果たしてくれる親や大人が実質的にいなかった場合、子供は、
- 人に自分の気持ちを打ち明けて、助けを求める方法
- 自分の感情をうまくコントロールする方法
こうしたことがわからないまま大人になってしまうことが、人を信じられない病の大きな原因となるんです。
子どもが不安な時に、子どもの感情の波長に合わせて安心の言葉をかけてくれる大人が年単位で不在だったらどうだろうか。
~略~
そのような場合は、自分の心の「外」に、安心の言葉に代わって感情を調節してくれる「物」を探すしかないのだ。
こうした他者を頼れず、自分の感情コントロールの方法も身に付けられないことで、「物」しか頼りにできない人のことを、本書では「アディクト」と呼んでいます。
他人というものを諦めてしまっている
精神的に未熟な親は、子供に「これでもか」というくらい過剰な要求をしてきます。たとえば、
- 子供はどんなときでも常に、親の期待に応えるべきだ
- 子供は親の都合や気持ちを、第一に考えるべきだ
こうした毒親の元で育つ人は、何か辛い思いをしたり、不安になったり困ったりしたとき、
「親や誰かに相談してみて、一緒に解決してもらおう」
という発想は、まずほぼ浮かびません。
おそらく真っ先に思い浮かぶことは、
- 「こんなことで悩む自分を見せたら、見捨てられてしまうに違いない」
- 「不安を口にしても、誰もまともに取り合ってくれないだろう」
- 「自分独りで何とかするしかない」
こうした考えしか出てこないはずです。
そのくらい人を信じられない病になっている毒親育ちの人は、心理的に孤立しているということです。
これはつまり、幼い頃からすでに他人に自分の感情を受け止めてもらうことを諦めているということです。
その理由は、アディクト(他者を頼れず、自分の感情コントロールもままならない人)にとって他者とは、いつも警戒しなければならない相手だからです。
アディクトにとって「他者」とは、自分に危害を加えたり、プレッシャーや不安を与えたりして何らかの苦痛を強いる存在、常に気を遣い、我慢しなければならない相手でしかない。
彼らが「恋人」や「親友」、「兄貴」などと呼ぶ「他者」も、完全に安心できるわけではない。
常に相手の機嫌をうかがい、相手に負担を与えないよう配慮し、相手の期待に応え続けなければ見捨てられてしまう、という潜在的な不安と表裏一体の存在なのである。
他者という存在が、自分にとって安心できる相手ではなく、むしろ
- 相手の意に沿わないと急に怒り出す、警戒すべき存在
- 自分の辛い気持ちには一切関心を持ってくれない、頼りにならない存在
- いつも気を遣ってあげなければならない、面倒くさい存在
人を信じられない病は、こうした子供時代から続く、
「他者に対する絶望の経験」
この積み重ねから生じてくるものなんです。
アディクトが抱えている暗黙の生きづらさ
アディクト(他者を頼れず、自分の感情コントロールもままならない人)は、生まれてから今までずっと、たった独りで頑張り続けてきたはずです。
想像を絶するような深い孤独感の中にいるからこそ、
- たった一人の誰かからも、見捨てられたくない
- 家や学校などでの居場所も、失いたくない
こうした気持ちは、人並み以上のはずです。
通常ならとっくに音を上げて、誰かに泣きつきたくなるような状況でも、アディクトは我慢し続ける。
泣きつけるほど信頼できる、安心できる他者を彼らはもっていないからである。
だからこそ他人の期待には全力で応えようと努力するし、嫌なことがあっても「自分さえ我慢すれば何とかなる」と思ってしまう。
そして結果的にいつも自己犠牲をすることになるわけです。
そうして人を信じられない病によって誰も頼れない中、我慢と自己犠牲の生活が限界を迎えそうなときに、もし、
「物」が、折れそうな自分の心を支えてくれた
そんな体験をしたら、果たして多くの人はどう感じるでしょうか。
たとえば、
- 体がダルくて辛く、心も弱っていたときに、風邪薬を飲んだら心も体もラクになった
- 人間関係のストレスで思い悩んでいたときに、アルコールを飲んだら嫌なことが忘れられた
- もう何もかもが嫌になったとき、ゲームをしている間だけは気持ちがラクになった
誰のことも頼りにならず、独りで耐えて頑張ってきた人にとって、こうした頼れる「物」との出会いは強烈なものになるはずです。
「物」や何かに頼ることは、立派な生き抜く術である
何か困難に直面したり、誰かから怒鳴られたりしたときに、多くの人は誰か信頼できる人に相談することで、気持ちをラクにすることができます。
それは相談に乗ってくれた人達からの
「励ましや慰めの言葉、共感されたり褒められたりした経験」
が自分の心の中に蓄積され、それが心の支えとなるからです。
しかし人を信じられない病の人の場合、悩みを一人で抱え込むしかありません。
そのため自分の中に生じる屈辱感や劣等感、怒りや不満、不安感といった強い感情にただただ飲まれて混乱してしまいかねません。
そうしたときに唯一、「物」が自分を助けてくれれば、誰だって心の底から、
『「物」は自分を守ってくれる、人間よりも信頼できるものだ』
こうした気持ちが強くなり、さらにより強く、
『他人は全く頼りにならないけど、「物」がある限り、もう誰かを頼るというリスクを負う必要もない』
そう思い込んでしまう人も少なくないはずです。
こうしてますます他人との心の距離感が遠くなると、ちょっとしたことで
- 他人から悪意を感じやすくなる
- 孤立感や見捨てられて不安などが強くなる
このようなリスクも高まってしまうわけです。
そうなると、より「物」を頼ることだけに依存してしまい、他者への不信感も強くなるという悪循環から抜け出せなくなってしまいます。
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人を信じられない病の克服には
たとえ今は「物」を頼り続けられていても、いつかは「物」だけでは自分の心を支えられなくなるときがやってきます。
そうして人も物も頼りにならなくなれば、その絶望からの回復は相当なものになってしまいます。
それでも、ほんとうに苦しい時に「物」はかつて自分を助けてくれた、という記憶は残っている。
「人」に助けてもらった記憶は、ない。
だからこそアディクトは「物」に頼り続ける。
「今度こそ、うまくいくはず」とみずからを奮い立たせながら、失敗を繰り返すのがアディクトのジレンマなのだ。
だからこそ少しずつ「他人は頼りにならない」という幻想に気付いていく必要があるんです。
頼りにならなかったのは、あくまで幼い頃の親や周りの大人だけのはずだからです。
たとえ市販薬でもアルコールでも、ネットでもゲームでも「何かに依存することは悪だ」という価値観が一般的にはあります。
しかし人を信じられない病の生きづらさに苦しんできた人にとっては、
「誰も頼れる人がいなかった人生をなんとか生き抜いてこられたのは唯一、自分を助けてくれる「物」に頼ることができたからだ」
ということが事実なわけです。
だからこそ頼れるものに出会えたことを、まずは肯定的に捉えるべきなんです。
ではどうすれば適切な心の距離感で、適切なタイミングで人を頼れるようになるのか。
本書を読む中で、少しずつ自分と向き合っていくことができれば、
- 人を頼れるようになる自分
- 他人よりも自分を一番に大切にできる自分
こうした自分に一歩ずつ成長していけるはずです。