どうしても、普通になれない自分をダメだと思ってしまう
どれだけ頑張っても自分は普通にはなれなかったという思いは、自己否定だけではなく、疎外感や無力感まで抱いてしまうものですよね。
本記事では、普通になれない自分を責めてしまう人へ、その苦しさを軽くする方法について解説していきます。
普通になれない自分を許せず苦しんでいる人へ
そもそも「普通になれない自分はダメだ」と思い悩んでいる人の多くは、ある幻想を抱いています。それは、
普通になれさえすれば、普通の「幸せ」が手に入るはずだ
という幻想です。
普通という言葉が持っている価値観
一般的に「普通の幸せ」というと、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。
- 平均より良い学校を出て、良い会社で働いている
- 結婚して家庭を築き、子供もいる
- 普通に暮らせる額の給料をもらっている
- 毎週末の休日を家族で楽しんでいる
たとえば上記のようなイメージを持っていた場合、「普通になりたい」と思っている人は、
- 「結婚さえできれば、幸せになれるはず」
- 「平均年収さえ稼げれば、幸せになれるはず」
このように無意識下で感じているはずなんです。
ではこうした「普通」の定義は、どのようにして作り上げられたのでしょうか。
自分の中の「普通」が作られた経緯
自分の中の「普通」が作り上げられる上で、大きな影響を与えたものは恐らく、テレビやネットです。
つまり普通になれないと思い悩みながらも、その普通とは自分の経験や体験・考えから生まれたものではないということです。
またもう一つ、身近に接する人(両親、家族、友人など)の影響が挙げられます。
実はこの身近に接する人の方が、テレビやネットよりも「普通とは何か」というイメージ構築に大きな影響を与えている可能性があるんです。
それは接する頻度が多いほど、影響力も大きくなるからです。
「普通になれない自分」を自分で見捨てていることに気付く
「なぜ普通になれない自分を否定して苦しんでしまうのか」
それは「普通になる」という言葉の中には、「社会適合している」という意味が含まれているからです。
「普通」という言葉は、さらに「標準的な」「社会適応している」といった価値観をも含んでいるわけです。
ある言葉が人を縛り付けたり固定したりするとき、言葉の何がその人を縛るのかというと、このように、その言葉にまとわりついている価値観や世界観のようなものが縛っているわけです。
特に日本では昔から
- 「所帯を持ったら一人前」
- 「家を買って一人前」
というように、一定の基準をクリアして初めて社会で認められるような風潮がありますよね。
そのため極端な話ですが、
普通になれない = 社会不適合者
のように自分にレッテル貼りをしてしまうことが、苦しくなる原因の一つになっているわけです。
「みんなと同じ「普通」になりさえすれば、自分も幸せになれるはずだ」
こうした思いが、逆に自分を追い詰めてしまっている可能性があるんです。
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普通になれないと思うから「わかってほしい」と思ってしまう
基本的に「普通になりたい」と思うと、存在しない他者と比較することになります。
しかし他者といくら比較しても、全ての面で他者に勝ることは不可能ですよね。
- 平均年収を稼げても、結婚はできていなかったり
- 結婚はできても、子供がなかなかできなかったり
- 子供はいるのに、一緒に過ごす休日がほとんど取れなかったり
つまり、普通になりたいという思いを抱くことにより常に、
「普通になれない自分の部分にばかり意識が向いてしまう」
という、どんなに頑張ってもいつも心が満たされない状態に陥ってしまうわけです。
そうなると、
「自分は決して楽をしてきたわけではない」
「こんなに努力したのに、普通になれない」
「そんな自分のことを分かってほしい」
こうした気持ちを他者に求めてしまいがちになり、ますます苦しくなってしまうんです。
>>>「自分の辛さをわかって欲しい」人が、実は本当に望んでいるもの
普通になれなくても、不幸ではない
そもそも多くの人が持っている「普通とは何か」という基準は、自分独自の経験を元にしていない場合がほとんどです。
自分の価値観などとは無関係に「普通とはこうあるべき」という理想像が先にあるわけですから、苦しくなるのは当然です。
だから「あらゆる面で普通になれないと、幸せになることはできない」と思い込んでしまうわけです。
大切なことは、「普通になれなくても、不幸ではない」ということです。
「普通とは何か」とは、幸せとは何かという問い
今一度、なぜ自分は「普通になれないこと」に思い悩んでいるのかを考えてみてください。
- 「世間一般の言う、普通になれたら自分は何者かになれるはずだ」
- 「何者かになれたら、幸せになれるはずだ」
もしかすると、
「自分とは何者なのかが分からないことに不安を感じており、それを知ることで安心したい」
そうした気持ちがあるのかもしれません。
泉谷著「「普通がいい」という病」の中では、普通になることの先に幸せは見つけられないと述べられています。
「普通」という言葉には、平凡で皆と同じが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。
つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。
しかし、幸せというものには、「普通」はない。
なぜなら、「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。
本当の安心や幸せとは、普通を目指すことで得られるものではなく、
- 「自分だけにとっての安心、幸せとは何か」
- 「本当の自分とは何者なのか」
こうした自分の内面を探す過程で見つかっていくもののはずです。